さわおと。

この不思議な響きの名の由来は、温泉が発見された約1200年前に遡ります。
時は平安初期、大和朝廷による律令制が確立し、全国に鎮守府が置かれた時代。
その最北の地が、ここ多賀城や出羽の国でした。

東北へとその勢力をのばす朝廷と、古くから周辺の国々を治めていた蝦夷との対立。

それは繰り返れる戦火となり、蝦夷軍は阿弖流為(アテルイ)を将に三千という少兵にも関わらず果敢に立ち向かいました。
その自国を守ろうという強い意志と結束力は、約三万の朝廷軍を退けるに至ります。
蝦夷軍の勢いに脅威を感じた朝廷は十万の兵を派遣し、戦いはさらに激化していったのです。

いっこうに収束の兆しを見せない戦局。

業を煮やした朝廷は、大納言の座に就く貴族にして武勇に優れた坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命。
彼は鬼神のごとき進撃で、802年、長い戦いにようやく終止符を打ったのです。

…と、ここまでは、誰もが知る有名な歴史的トピック。
この大和朝廷の成立と坂上田村麻呂の武勇譚の背景に、ここ沢乙の地の名が登場するのです。

朝廷側の兵の駐屯地は、多くの役人やその家族、職人などが住まう「外府」である利府に置かれました。
そのとき、長期にわたる激戦を続ける兵士たちの傷と心を癒したのが、沢乙の鉱泉だったと言い伝えられております。

さらに興味深いのは、利府街道から温泉へと向かう道すがらにある、「長者前」と呼ばれる場所。
現在は伊豆左比賣神社(いずさひめじんじゃ)があるこの地には、かつて当時の利府の豪農・九門長者の屋敷がありました。
代々の朝廷側の将軍はこの九門長者の屋敷でもてなしを受けることになっており、坂上田村麻呂が逗留した際には、
山海の幸を囲んで酒を酌み交わしたと伝えられています。
このとき、田村麻呂の接待役を務めたのが、久門長者に使える亞久玉姫(あくたまひめ)という娘。
現在の沢乙温泉にほど近い沢で芹摘みなどをしていたところを田村麻呂が見初め、
互いに強く惹かれあったのちに子を授かったそうです。
伝説に残る武人と結ばれた亞久玉姫を人々は沢乙女(さわおとめ)と呼んで敬い、
ふたりが出逢った場所一帯をも「沢乙女」と呼ぶように。
いつしかその名は「沢乙(さわおと)」と呼びやすく姿を変え、現在に至ります。

沢乙に残る史実と伝説。

はるか1200年前の風景に心を馳せて湯につかれば、かの時代より変わらずにあるあたたかさ。
1000年前から、1000年先まで。
太古のロマン、そして、連綿と続き歴史を紡いできた人々の営みや想いごと、この湯を守り後世に伝えていくことが、
沢乙の名を冠する宿として、湯主・湯守としての役目と考えております。。

九代目湯主 内海貴史