沢乙温泉の歴史
1,000年前から、こんこんと。1,000年先まで、とうとうと。
湯が結ぶ、千歳のものがたり。
沢乙温泉の歴史
◎開湯300年(正徳年間)
時は江戸正徳年間1711~1715年(仙台藩5代当主伊達吉村)。
この地にて、郷人が竹で柱を造り茅で屋根をふき、崖下・沢のほとりで温浴していたと云われます。
さらに、郷人の万五郎が、山を切り開き渡り廊下と脱衣場を造り、居心地の良い入浴の場を作り上げました。
◎湯治場170年(安政年間)
江戸安政年間(1854~1859年)仙台藩13代伊達慶邦公の時代、仙台藩金山奉行の佐伯氏が沢乙温泉の泉質と効能を調べ、仙台藩に報告し仙台藩からのお墨付きの温泉とりました。
以来、宿場町利府で湯治宿場として営業が始まります。
200年余り前に宮城は蔵王噴火や地震、疫病・感染症が流行して、蔵王周辺よりも仙台城下近郊の湯治場・薬湯として重宝されました。
利府近郊の風土は田んぼの耕作が盛んで、田植えや稲刈りの疲れを癒すために人々が湯治場に集い、昭和中期まで地域の人々に親しまれておりました。
安政年間から仙台藩金山方奉行により当主が決められ、大正から内海家が代々の当主となりました。
昭和57年4月に県民の森林野火災により、伝統的な湯治長屋が全焼し廃業の危機に陥るが翌年に八代目夫婦が再建しました。
現在、九代目当主が料理旅館として温泉の歴史を伝え湯守する。
沢乙温泉は、宮城県温泉台帳に記載される温まりの源泉を有する温泉であり、正徳・安政年間から現代まで脈々と歴史を
紡ぎ、地域の人々に慕われる名湯であります。
現住所の「明神沢」という地名から、神様が現世に「沢乙の名水」として姿を現したパワースポットとも云われております。
沢乙温泉の始まり
平安初期1,200年前、この東北で坂上田村麻呂率いる大和朝廷軍と阿弖流為の蝦夷軍との激しい戦いがありました。
その頃、国府多賀城から黒川郡七ツ森に狩りにむかった坂上田村麻呂が足に怪我をし、多賀城に引き返す途中で家臣の霞野忠太盛春が、沢辺に水煙を見つけました。
そこで霞野忠太盛春が坂上田村麻呂に足を洗うよう勧めると傷が癒えたことから沢乙の名水として広まり、多くの人の心と体を癒してくれたと代々云い伝えられております。
〈宿周辺の当時の史跡〉
1200年前、坂上田村麻呂率いる大和朝廷軍と阿弖流為の蝦夷軍との悲しい戦いで、亡くなった多くの御霊を鎮めているのが菅谷不動尊(不動明王)です。
坂上田村麻呂は自ら率いる四万の兵とともに現在のグランディ21の広大な平野に陣をおきました。
戦いに疲れ果て病になった者や家族の無事を祈り、疫病退散を願い祈ったのが菅谷穴薬師堂であります。
菅谷穴薬師は、仙台市岩切にある東光寺の「宵の薬師」、七ヶ浜町湊浜の「暁の薬師」とともに、「夜中の薬師」とも称されています。
「さわおと」の歴史とロマン
宿より南西に2.5kmほどに「延喜式」式内社の伊豆佐比賣(いずさひめ)神社があます。神社のある飯土井の地名は、湯の湧
く所を意味し、古くは湯の神をまつったとされております。
その近くにある「長者前」と呼ばれる場所には、かつて国府多賀城の台所を支えていた豪農・久門長者屋敷がありました。
代々の朝廷側の将軍はこの久門長者屋敷で酒と山海の幸を囲み、おもてなしを受けていたと伝わります。
その時に坂上田村麻呂の接待役を務めたのが、久門長者屋敷に支える阿久玉姫(あくたまひめ)という娘でした。
沢乙温泉にほど近い沢で阿久玉姫が芹摘みなどしていたところを坂上田村麻呂に見初められ、お互いに深く愛し合い、子を宿しました。その子は千熊丸と名付けられました。
阿久玉姫は、京にいる坂上田村麻呂を恋い慕いながら郷人とともに千熊丸に深い愛情を注ぎ育て、千熊丸が13歳になった時、京の都に送り出しました。
京に上った千熊丸は、坂上田村麻呂に会うことが叶い、阿久玉姫より託された形見の白羽の鏑矢を証拠に坂上田村麻呂との親子の名乗りをあげました。
その後、千熊丸からのむかえで阿久玉姫も坂上田村麻呂の待つ京へと旅立っていったのでした。
後に、千熊丸は二代目坂上田村麻呂となり、世のために尽力しました。
伝説に残る武人の坂上田村麻呂と結ばれた阿久玉姫を郷人は、沢乙女と呼んで敬い、ふたりが出逢った場所一帯をも「沢乙女」と呼ぶようになり、いつしかその名は「沢乙(さわおと)」と呼びやすく姿を変え、現在に至ります。
先人方は故郷で生まれた母子の慈しみの物語りを誇りに思い、1000年以上も口から口へと大切に云い伝えてきたのです。
※参考文献
・宮城県高等学校社会科(地理歴史科・公民科)研究会歴史部会 編「宮城県の歴史散歩」
山川出版社 2007年7月
・「宮城の伝説」刊行委員会 編 「宮城の伝説」